現地の人が必要としていない援助を、先進国側が一方的に自己都合で行ってもあまり効果は出ないし、持続しない、
というのは国際協力でよく耳にする話。
現地の人が持つ「こうありたい」という理想像を、現地の人が自分たちの力で実現できるよう、必要な技術や物資を提供するのがよいといわれる。
そうすることで達成感や主体性が生まれ、援助する側がいなくなっても持続するものとなる。
ジュグーはごみの問題がわりと深刻で、家の外や学校の校庭、道路上などいたるところにごみがポイ捨てされている。
野菜や果物の皮などは野ヤギなどの動物が食い散らかす。やがて土に返るといわれるけれど、果たしてどどれだけ時間のかかることか。
ビニール袋や紙くずのほか、中には針や金属片も散らばっており、裸足で歩き回る子供たちにとっては非常に危険である。
私は学校保健が主な任務とされているので、このごみの問題についても特に学校に絞って活動を行っている。
ポスターを利用して「校庭にごみをポイ捨てせずゴミ箱に入れましょう」という啓発や、ゆくゆくは各校対抗の掃除コンクールなどを実施したいと思っている。
啓発活動をしていて意外だったのが、みんな「何がよくて何がいけないか」は知っているということ。
アポなしで訪問して先生たちにポスターの説明を生徒にしてもらっても、「食べる前に手を洗いましょう」だとか「ごみはゴミ箱へ捨てましょう」だとか「外ではちゃんと靴を履きましょう」などの項目をこちらから何も説明せずとも生徒に教えているし、何故そうしなければいけないかもちゃんとわかってる。
子供たちもしっかりと答えている。
『なんだ、わかってるじゃん』と感心して教室の外を見ると、校庭にはゴミが散らばっているし、靴を履いていない生徒もたくさんいる。
先生も生徒の前で平気でポイ捨てをする。
ある校長先生に、「うちの学校は週二回、ちゃんと掃除をしている。いま校庭にゴミが散らかってても、どうせまとめて掃除するからいいじゃないか」と言われ、それではどうしていけないのがうまく反論できず悔しい思いをしたことがある。
きっと、週二回だからいけないとかそういう問題ではない。
もちろんこのままでいい筈もない。
ゴミのポイ捨てが「よくないことらしい」という概念が頭の中にあっても、それほど重要なことではない限り、昔から長く根付いているこの習慣は続いてしまうだろう。
住民の多くがゴミ問題について真剣に考えるようになり、「ゴミが散らかってる街は嫌だ、ゴミのない綺麗な街でありたい」と思うことで、ようやく事態が改善されていくのだろう。
はて、どうしたらいいものか。
外国人が一方的に「ポイ捨てよくない!ちゃんとゴミ箱に捨てよう!ゴミの散らかってない綺麗な街にしよう!」と言い続けているだけではきっとあまり効果はない。
大切なのは、現地の人が「ゴミの散らかっていない綺麗な街にしたい」と思うことだ。そしてそう思う人がどんどん広がっていけば、自然と街は綺麗になるはず。
その上で必要な援助(例えばハード面では、財政的に厳しければJICA予算を通じてゴミ箱やゴミ回収機材を提供するなど。ソフト面では、効率的な掃除やゴミ回収の仕方を日本の実例を通して情報提供するなど)を行うのがよいのだろう。
こう考えているうちに、今やっている自分の活動の意味って何なんだろうと思い始めてきた。
このまま「掃除しまょう」とかいい続けて、仮に自分がいるときは掃除をしたりしても、結局それはやらせれている感があって、自分の帰国後もそれが続いているのかどうか、自信がない。
自己満足の活動に陥りがちだ。
うむーいかんいかん。
頭でっかちになりすぎて行動できないのは、たまに現れる自分の悪い癖。
何もしないより、まずは行動したほうがよいというのも頭ではわかっているはずなのに。
きっと一歩踏み出して行動しちゃえば、どうにかなるんだろうけど。
行動することで見えてくることだってあるんだろうけど。
何かがブレーキをかけてくる。
ま、焦ることもない、か。
<思いつき備忘録メモ>
小学校の子供たちにポイ捨て禁止キャンペーン的なポスターを書かせて、市役所とか病院とか人が集まるところに貼ってみようか。
日本でも小学校でそんなことやった記憶があるな。金賞は商店街の掲示板や公民館に貼られたりしてた。
外国人ボランティアの一人がわーわー言うよりも、子供たちから訴える力は遥かに大きいはず。